−前 編−

 源次郎尾根の鋭い落ち込みが間近に迫ってきた。やがて大きな斜面の上に出た。
 このあたり斜面の波の連続であった。大きいもの、小さいもの、それにかなりの傾斜を持った斜面もあった。
下りるには細心の注意が必要であった。もし体のバランスを失い勢いよく滑り出して行こうものなら、何処まで滑って行くかわからなかった。だが、慎重に下りてさえ行けばそんなに危険はなかった。雪の斜面は表面が凍結してツルツルになっていたが、小さなステップのような雪のひだがあちこちにあるので、その上を次々にゆっくりと下りて行けばよかった。

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 夏山もやがて終りを告げようとする8月27日、有明高専山岳部5人のパーティーは、長い剣沢雪渓を下りて、池の平、仙人の池へと歩いていた。
 あまりいい天気ではなかった。朝起きたときは青空が見えていたのが、今は、山中にただよう薄いベールのような朝霧を空一面に広げたような天気になっていた。
 それでも何とか午前中はもちそうな感じであった。天気予報でも台風は東北方面に過ぎ去り、天気は少しずつ回復に向かっているようなことをいっていたので、たとえ崩れるとしても、そうひどいくずれは考えていなかった。
 だが、もし雨が降るとするならば、それまでに出来るだけ行程をかせいでおきたかった。このコースは雨が降れば歩けなくなるというコースではなさそうだが、初めてのコースなので、精神的に気がかりになるのは確かであった。それに、雨に降られた苦い経験も頭にあった。
 剣沢雪渓、真砂沢山荘、南股と順調に下り、予定よりはやめに二股へ着いた。
 二股は三の窓との出合で、つり橋の上に、三の窓雪渓が気が遠くなるように天に向かって伸びていた。これからは剣沢を離れ、この三の窓を左手に見て北股へと登り、小窓との出合で派出した尾根に向かって行かねばならなかった。地図上では池の平まで約2時間30分のタイムになっていた。
 私達はそれにそなえしばらくそこで休むことにした。近くには先程追い越した女性3人のパーティーと、先を歩いていたやはり女性2人のパーティーも休んでいた。にぎりめしをほうばり、写真などを撮ったりで、思い思いの楽しい一時であった。

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 天気は意外に早く崩れてきた。空は相変わらずの曇空で大きな変化は見られなかったが、雲が低くなったのか、三の窓に雲がまつわりつくようになってきた。やがて、それはしだいに濃くなり、そして広がっていった。しばらく経つと雨になった。
 止むなくポンチョを使用して出発。二股では小降りだった雨も、北股の雪渓を登る頃になるとにわかに激しくなってきた。この辺りは天気さえ良ければ、三の窓の天に突き上げる雪渓を中心に、八峰の岩稜、小窓の頭など雄大な眺めが展開されるはずであるが、今は、全てが雲の中にあった。だが、それが私達を失望させるということはなかった。山はそれまでに十分な喜びと感動を与えていた。
 2、3日前は素晴らしい天気であった。立山を縦走し、雷鳥と遊び、雪渓を滑りまくった。中でも剣岳はこの山行の圧巻であった。衝立を立てたような岩壁をよじ登り、山頂に着いた感激は今でも体のすみずみまで残っていた。

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 私達は一列に間隔を詰めて歩いていた。雨は相変わらず激しく、ポンチョに覆われた体の中まで冷たいものが伝わっていた。トップは岩田、セカンドが西田で、サードが私、次が江崎で、リーダの折小野はラストを歩いていた。やがて急な雪渓の上にかかった。
 S字状に曲がった雪渓の上端は、両側の岩壁が急激に迫り、極端に幅が狭くなった急斜面であった。今までにこのような雪渓を見たことがない。アルプスであれば雪渓上がルートになることは珍しい事ではないが、かつて経験した槍・穂高でもこのような所は無かった。もっと広く、もっと緩やかな所であった。
 私はピッケルを使う事にした。ピッケルで足元の雪を一つ一つカッティングして行けば何とか登っていけそうであった。
 「ちょっと止まってくれ、危険だから俺が先頭に立とう」
 私はみんなを止めトップの方へ歩きかけた。
 一瞬、激しい雨の音が消え、山が不気味なほど静かになっていった。
 次の瞬間であった。
 ビシビシビシッという異様な音と同時に、
 「崩れるぞっ」
 とさけぶ岩田の声をかき消し、足元の雪が轟音と共に崩れていった。全てが瞬間の出来事であった。
 私は気がついたのは明朝早くであった。私は小屋らしきものの中で目を覚ましていた。しばらくは夢を見ているのかなと思っていた。見慣れぬものばかり、それに頭がボンヤリしているので何もわからなかった。しかし、うつろな目はある人をじっと見つめていたらしく、
 「もう大丈夫ですか」
 とその人が声をかけてくれた。まるで天使のような優しい声であった。
 「ええ」
 と私は言ったものの何が大丈夫なのかその理由がわからなかった。そのうち部員が現れて、昨日の事故の模様を一部始終語ってくれた。声をかけてくれた人が、昨日二股で合った女性3人のパーティーのうちの1人で看護婦さん、小屋は池の平小屋という事がはじめてわかった。

(後編につづく)

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